K-18

 

名 文 の 条 件

 


加 藤 良 一
 



 「名文」 とはなにか、とあらためて問われると答えに窮するのは私だけではなかろう。
 よくいわれる「名文」 とは、優れた文、美しい文、ひとを引きつける文だ、といったところで依然としてとらえどころがないことに変わりはない。似たようなことばに 「美文」 があるが、こちらは美辞麗句や技巧を凝らした文章のことであり、「名文」 の一種と考えてよいだろう。

 「名文」 と呼ばれるためには、どのような条件が備わっていればよいだろうか。少なくも 「名文」 と呼ばれるためには、おそらく何かしら他より優れたところがなければならない。とはいえ、誰にとっても同じように 「名文」 と受け取られるとはかぎらない。そこが 「名文」 のむずかしいところである。

 たとえば美術工芸品を例にとれば、同じ材料や道具を用いても、名人は、素人とは比べようもないほどの立派な作品を作り上げるだろうが、なぜそのような差が出るのか。それは、名人といわれるほどの人は、材料の性質や特徴を熟知し、道具の使い方に熟達したうえで鋭い感性を磨いているからにほかならない。もちろん美術工芸品を作ることと文章を書くことは、ずいぶん隔たりがあることはたしかだ。しかし、どこか共通したものを感じる。

 美術工芸品を例にとったのは、名文家といえども特別なことばを使うわけではなく、当たり前の万人共通のことばを使っていることを確認したかったからである。ただし、夏目漱石のように、あまり一般的でないむずかしい漢語を用いることで、ユーモアをいっそう引き立てる手法を使う場合ももちろんあるが、あくまで一般論としては、誰もが知っていることばが使われているのである。つまり、材料が同じであれば、それをどう並べるかが文章作りの第一歩であり、これは 「どう」 書くかという問題である。しかし、これだけで 「名文」 が生まれるはずもない。その次にくるのは 「どう」 書かれているかだけでなく 「何」 が書かれているか、そして書かれたものが読み手の気持ちにすっと入り込めるかどうかである。
 そのように考えると、「名文」 とは、書き手と読み手とのあいだで共有されるイマージュとして形成されるものではないか。つまりは、作者に 「書く力」 が必要なのと同じように読者にもそれなりの 「読む力」 が備わっていなければ、「名文」 が 「名文」 として認められないことになると思うが、いかがだろう。
 三島由紀夫は、「名文とは何か」 と聞かれて 「あなたが名文と思った文章が名文です」 と答えたそうだが、これなどはまさに 「名文」 が作者と読者のあいだにあることを物語っていはしないか。「名文」 の定義がいかに困難かということがよくわかる。やはり自分が感動した文章がまずは 「名文」 なのだと思うより仕方がない。だから、どうしてこれが 「名文」 なんだと首をかしげることがあっても、とりあえず気にしないことにしよう。

 多くのひとに 「名文」 と認められているよい例として、野口英世の母シカが米国にいる息子に送った手紙がある。これはお世辞にも 「美文」 とは言えないが、息子を案じる母親の切ない気持ちがひしひしと伝わる文章である。


おまイの しせにわ みなたまけました。わたくしもよろこんでおりまする。なかたのかんのんさまに ねんよこもりいたしました。べん京なんぼでも きりかない。
いボし ほわこまりおりますか おまいか きたならば もしわけかてきましよ。はるになるト みなほかいドに いてしまいます。わたしも こころぼそくありまする。
ドかはやく きてくだされ。かねを もろた こトたれにもきかせません。それをきかせるト みなのれて しまいます。
はやくきてくたされ。はやくきてくたされはやくきてくたされ。はやくきてくたされ。いしよのたのみて ありまする。にしさむいてわ おかみ。ひかしさむいてわおかみ しております。きたさむいてわおかみおります。みなみたむいてわおかんておりまする。ついたちにわしおたちをしております。
えい少さまに ついたちにわおかんてもらいておりまする。なにおわすれても これわすれません。さしんおみるト いただいておりまする。はやくきてくたされ。いつくるトおせてくたされ。このへんちちまちてをりまする。ねてもねむれません。


お前の出世には、皆たまげました。私もよろこんでおりまする。中田の観音様に夜篭りいたしました。勉強なんぼでも、きりがない。
烏帽子のことは困りおりますが、お前がきたならば申し訳ができましょう。春になると皆北海道に行ってしまいます。私も心細くありまする。
どうか早く来てくだされ。金をもろたこと誰にも聞かせません。それを聞かせると皆飲まれてしまいます。
早く来てくだされ。早く来てくだされ早く来てくだされ。早く来てくだされ。一生の頼みでありまする。西さ向いては拝み、東さ向いては拝みしております。北さ向いては拝みおります。南さ向いては拝んでおりまする。ついたちには塩絶ちしております。
栄昌様についたちには拝んでもらっておりまする。なにを忘れてもこれ忘れません。写真を見るといただいておりまする。早く来てくだされ。いつ来ると教えてくだされ。この返事を待っておりまする。寝ても眠れません。


 
 野口英世は自分の母が字を書けるとは知らなかったという。囲炉裏の灰に火箸で書いて練習したともいわれるが、それくらいシカさんの手紙は誤字もあり、じつにたどたどしいものである。しかしながら、ここには立派な作家が真似をしても書けないような何かがある。書かずにおれないというひたむきさが、読むひとを突き動かす力となっているにちがいない。
 これは、他人に見せるつもりのない手紙だから、他人に読まれることを前提とした文章と比較するのは妥当でないかも知れない。さらに、シカさんが今度は他人に読んでもらいたいと思って書こうとしても、それはまったく無理な話である。シカさんの手紙は親子のあいだでしか通じないものだが、「名文」 の条件を考えるときのひとつの参考にはなろう。

2005年10月25日)




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